菌の物語

第7巻
第1話『パスツール全集』の行方

「発酵」という現象の本体は、長い間とらえどころのない神秘なものとされてきました。 太古の日本人は肉眼で見えない微生物の存在を知る由もなく、発酵を“神が宿って起きる現象”と思っていたようです。それでも工夫を積み重ね、神聖な現象を確固たる技術にまで高め、発酵を操るまでになります。

それを科学的に証明したのが「ルイ・パスツール」(1822-1895)。科学者、細菌学者であり、「近代微生物学の祖」ともいわれるパスツールは、発酵や腐敗が微生物によるものだということを証明しました。彼は「発酵は酸素の無い状態での生命活動の帰結である」とし、発酵の生物学的定義を極めて正確、かつ簡素な言葉で表しました。

執行草舟は、菌食事業を起こすにあたり、「宇宙的、哲学的思想は南方熊楠から、科学的、学問的思想はルイ・パスツールから、そして事業を実現化する思想をアレクサンダー・フレミングから得た」と述べていますが、菌の研究においてはパスツールがその出発点となりました。
執行は、特に『パスツール全集』に大変な思い入れがあります。創業前に、父親の親友だった当時の聖マリアンナ医科大学学長・戸栗栄三氏のはからいで、聖マリアンナ医科大学の器材や本などを使わせてもらいながら研究にとり組み、そして、現在の菌食事業の構想を得たのです。その時、研究室で特に読んでいたのが『パスツール全集』で、訳文もついていたため、理解を大きく助けられたそうです。

数十年後、執行は『パスツール全集』の原書を手に入れようと探したところ、偶然にも、カナダのバンクーバーの古本屋で見つかります。この原書が届いて、本を開いてみると驚くべきことがわかりました。この『パスツール全集』は、パスツールの孫であるヴァレリー・ラドがもともと所有していたもので、その後、パスツール研究所の所長を務めたガストン・ラモン(ジフテリアと破傷風の研究で有名な細菌学研究の第一人者)へ、ラドが直接贈った本だったのです。本にはラド本人の贈呈サインがあり、また、ラモンが所蔵していた印とサインがついています。

その後、カナダで高名なボツリヌス菌・腸内細菌の研究者であり、美術本の著名なコレクターである、C.Eドールマン(カナダ王立協会会長も務めた、細菌学、免疫学の高名な学者)の手に渡ります。この、C.Eドールマンが研究していたボツリヌス菌は、腸内細菌と共に執行が若い頃に研究していたテーマの一つでもありました。このように、全7巻、重さにして16㎏に及ぶこの大著は、ヴァレリー・ラド→ガストン・ラモン→C.Eドールマンという、世界的な権威が継承し続けた、細菌学の歴史を物語る大変に由緒正しい本だったのです。そして、不思議な縁に導かれ、最終的に執行の手に渡ったのです。

その後、貴重な全集入手のお礼に、カナダの古本屋の店主に電話をしたところ、「あの全集がホーム(故郷)に帰ったと直感で思った」と言っていたことが忘れられません。