菌の物語
大の酒好きで知られる埴谷雄高(1910-1997)。中でも埴谷雄高が好んで飲んでいたのが「貴腐ワイン」です。
貴腐ワインとは、その名の通り「高貴なる腐敗」を意味するワインです。その中でも代表的なのが「トカイワイン」。蜂蜜のように甘いトカイワインは、ハンガリーのトカイ地方独特の気候が産み出します。トカイ地方では、秋から冬にかけての朝に発生する濃霧がブドウ畑全体を包み込んでいき、その湿気によって“貴腐菌”というカビに侵された白ブドウが作り出されるのです。貴腐菌は水分を外に出し、糖分を濃縮させることで、とても甘いブドウになります。ルイ14世が「王者のワインにしてワインの王者」 (Vinum Regum, Rex Vinorum) と絶賛した逸話は有名です。また、シューベルトが1815年に作曲した「トカイ賛歌 ("Lob des Tokayers", D. 248)」という歌曲作品もあるほどに、トカイワインは絶大なる人気があったのです。
埴谷の代表作品である『死霊』は、埴谷自身、“唯一の生涯に亘る作品”と位置付けていた、特別な作品でした。埴谷は、文明とそれを支える生命、そして宇宙そのものの叫びを文学で体現しようと挑戦し続けたのです。そしてトカイワインを飲みながら執筆したと語っています。「埴谷は、自己の生命の淵源に向かって垂直に生き切った人物であった」と執行草舟は言います。到達できぬ遠い憧れのために、その身を削り、宇宙へと突入していった埴谷の思想の原動力は、貴腐ワインにあったのかもしれません。
「飲みはじめれば必ず、原始の混沌か、それとも、未来の大破局の中へ踏み込んで、記憶も消えいりそうな暗黒の奈落の底で、自分が自分でなくなった確認を、いちどしてみなければ気が済まないのである」―― 埴谷雄高