菌の物語

第6巻
第4話味噌が救った被爆者の命

1945年8月9日 11時02分。6日の広島に続き、長崎に原爆が投下されました。7万人が亡くなった中、爆心地からわずか1.4キロの病院で、被爆した多くの患者を救った医師がいました。浦上第一病院(現・聖フランシスコ病院)の医長だった秋月辰一郎博士です。

原爆によって全て破壊され、死の灰がふり積もる廃墟と化した病院。医療品も不足し、生鮮野菜の備蓄も失われた中で、沢山の被爆者を救ったものとは何だったのでしょう。

当時、結核の療養所だった浦上第一病院は、長崎市の味噌、醤油の倉庫となっており、さらにワカメをたくさん保存していました。 ワカメの味噌汁と玄米で自身の結核を克服していた秋月博士を始め、医療スタッフたちも、味噌汁を普段から食べていました。そして、被爆者たちにも 毎日玄米、ワカメの味噌汁、醤油で味つけされた野菜が出されていたのです。

医薬品が不足していたため、重度の火傷には味噌を塗っての治療を行ない、被爆者たちは放射線障害に苦しみながらも生き延びました。そして驚くことに、秋月博士を始めとする医療スタッフは、その後、原爆症にかからなかったのです。 秋月博士は、原爆投下から60年生きられ、89才の大往生を遂げています。1964年発行の『体質と食物』の中で博士はこう述べています。

「味噌汁こそ人間のもっとも重要な食べ物だと思う。味噌汁を飲む習慣のある家族はほとんど病気にならないことがわかっている。味噌汁は最上の薬であると考える」

「結核があったのにもかかわらず、軍隊に入隊したり、原爆に被爆したりした。その間、相当以上の無理をした。病弱であったが、 わかめと揚げを実とした味噌汁が私の身体の要であるから、自分の病床は悪化しないという確信があった。また、事実その通りであった」

1986年にチェルノブイリ原発事故が起きた時、秋月博士の『長崎原爆記』の英訳が西欧で広まり、味噌の出荷量が爆発的に伸びました。それまで海外への味噌出荷量は約2トン。しかし、チェルノブイリと『長崎原爆記』以降、年間14トンまで出荷量が増加したのです(但しそれは強制発酵によるもので、本来の効果を発揮できるかは疑問が付されています)。

発酵食品代表である味噌を基本にした食生活が、被爆者を救う「奇跡」を起こしたのだと、博士は結論づけています。